母親が経営の舵を取る。 その毎日は、まるで終わりのない戦いのように感じられるかもしれません。
次々と現れるタスク、予期せぬトラブル、そして「もっと良い母親でいられたはず」という静かな罪悪感。 これらは、あなたの時間を静かに奪っていく”時間泥棒”の正体です。
しかし、この戦いは腕力で乗り切るものではありません。 リクルートでの執行役員時代、そして経営者として子育てと向き合ってきた私自身の葛藤と、多くの女性経営者へのヒアリングから見出した、時間を支配するための”しなやかな技術”についてお話しします。
これは単なる時短術ではなく、あなたらしい人生と経営を取り戻すための、静かで力強い哲学です。
なぜ私たちは「時間泥棒」に心をすり減らすのか
母親と経営者、二つの「完璧」という呪い
「良い母親でありたい」「優れた経営者でありたい」。 この二つの理想像が、私たちを無意識に縛りつけています。
リクルート時代、私は執行役員として数々のプロジェクトを成功に導いていました。 しかし、同時に「母親としても完璧でいなければ」という思いに駆られ、保育園のお迎えから夕食の準備、子どもの宿題のサポートまで、すべてを自分一人で抱え込んでいたのです。
現在、女性起業家の約7割が35歳以上で起業を選択しており[1]、多くが結婚・出産・育児といった家庭環境の変化をきっかけにしています。 つまり、私たちは最初から「二足のわらじ」を履くことを前提として経営の世界に足を踏み入れているのです。
社会は私たちに対して、経営者としての成果と母親としての役割、どちらも完璧にこなすことを暗黙のうちに期待します。 しかし、この二つの役割には根本的な違いがあります。
経営者と母親の役割の違い
- 経営者: 論理的判断、効率性重視、成果による評価
- 母親: 感情的なケア、継続的な関わり、プロセス重視
- 共通の課題: 時間の制約、責任の重さ、意思決定の連続
この違いを理解せずに、どちらにも同じアプローチで臨もうとすることが、私たちを疲弊させる大きな要因となっているのです。
「自分だけが頑張っている」という孤独の罠
鎌倉の古民家で開催している「しなやか経営ラボ」で、多くの女性経営者と対話を重ねる中で気づいたことがあります。 それは、私たちが「助けを求めることは弱さの表れ」だと思い込んでしまっていることです。
先日、IT企業を経営する38歳の女性からこんな相談を受けました。 「社員には『何でも相談してほしい』と言っているのに、自分は誰にも弱音を吐けない。子どもが熱を出しても、重要な会議があると『申し訳ない』と感じてしまう自分が情けないんです」
この言葉に、多くの女性経営者が共感するのではないでしょうか。
統計によると、子育て期にある30-40代男性の週60時間以上労働者は約17%に達し[2]、6歳未満の子を持つ夫の家事・育児時間は1日67分に留まっています。 つまり、多くの女性経営者が家庭内でも経営責任でも、圧倒的に重い負担を背負っているのが現実なのです。
この孤独感こそが、最大の「時間泥棒」かもしれません。 一人ですべてを抱え込むことで、本来なら他者と分担できる作業まで自分で行い、結果的に時間を浪費してしまうからです。
時間を生み出す「しなやか経営」3つの原則
原則1:余白こそが価値を生む「カレンダーの聖域化」
多くの経営者は、スケジュールを埋めることが生産性だと考えがちです。 しかし、私が提唱するのは真逆のアプローチです。
意図的に「何もしない時間」「考える時間」を確保すること。 これを私は「カレンダーの聖域化」と呼んでいます。
リクルート時代、私は毎朝7時から8時までを「思考の時間」として完全にブロックしていました。 この1時間で、その日の優先順位を整理し、中長期的な戦略を練り、時には単純に空を眺めて心を整える時間としていたのです。
この習慣が、後の意思決定の質を格段に向上させました。 余白があるからこそ、緊急事態が発生しても冷静に対処でき、子どもの突発的な体調不良にも慌てることなく対応できるようになったのです。
カレンダー聖域化の実践方法
- 朝の1時間: 思考整理・戦略立案の時間
- 昼休みの30分: 完全なリフレッシュタイム
- 夕方の30分: 翌日の準備と心の整理
- 週末の半日: 家族時間と自分時間のバランス調整
原則2:弱さを見せることは、最強のチームビルディング
「助けて」と言える勇気。 これが、実は最も強力な経営スキルの一つだということに、40代になってようやく気づきました。
ある時、重要なプレゼンテーションの前日に子どもが高熱を出したことがありました。 以前の私なら、無理をしてでも両方をこなそうとしたでしょう。 しかし、その時は素直にチームに状況を伝え、「今日は子どもの看病に専念したい。プレゼンをお任せできるか」と相談したのです。
結果として、チームメンバーが見事にカバーしてくれただけでなく、「普段から頼られてばかりだったので、逆にお役に立てて嬉しかった」という言葉をいただきました。 この出来事が、私のチームの結束力を一層強めたのです。
弱さの開示が信頼を生み、信頼がより効率的な仕事の流れを作る。 これは、稲盛和夫氏の経営哲学にも通じる、人間らしい経営の本質だと感じています。
原則3:自分への評価軸を一つにしない
経営の成果と母親としての役割を同じ物差しで測ろうとすることほど、無意味なことはありません。
私は現在、「しなやか経営ラボ」の主宰、ライターとしての執筆活動、そして一人の母親という三つの顔を持っています。 それぞれに異なる評価軸を設け、多角的な視点で自分を認めるようにしているのです。
例えば、売上目標を達成できなかった月があったとしても、子どもとの時間を大切にできた、新しい執筆テーマに挑戦できた、といった別の軸での成長を認めることで、自己肯定感を保っています。
多角的評価軸の例
- 経営者として: 売上・チーム成長・顧客満足度
- 母親として: 子どもとの対話の質・成長のサポート
- 個人として: 学習・健康・人間関係の充実
- 社会への貢献: 女性経営者支援・業界への影響
時間泥棒を撃退する、母親社長のための5つの実践技術
技術1:「やらないことリスト」で思考を断捨離する
To-Doリストは多くの人が活用していますが、私が強く推奨するのは「やらないことリスト」の作成です。
現代の経営者は、一日に約35,000回の意思決定を行うと言われています。 この意思決定疲れこそが、本当に重要なことに集中できない原因の一つです。
私の「やらないことリスト」の一部をご紹介しましょう。
坂井美沙の「やらないことリスト」
- SNSの即座返信(まとめて1日2回チェック)
- 完璧な手作り料理への固執(冷凍食品も立派な選択肢)
- すべての会議への参加(本当に必要な会議のみ選別)
- 他社の成功事例との過度な比較
- 子どもの習い事の送迎すべてを自分で担当
このリストを作成してから、意思決定にかかる時間が大幅に短縮され、本当に重要なことに集中できるようになりました。 特に子育てと経営の場面で「これはやらないと決めたこと」だと思えることで、罪悪感からも解放されます。
技術2:1on1で家族を「最強のチーム」にする
ビジネスの世界では当たり前の1on1ミーティング。 これを家庭にも導入することで、家族を経営における最強のパートナーにできます。
我が家では、月に一度、夫と「家庭運営会議」を開いています。 お互いの仕事の状況、子どもの成長段階、家事の分担方法、そして個人的な目標などを共有する場です。
この会議で話し合う内容は多岐にわたります。 来月の出張予定、子どもの学校行事、家計管理、そして時には夫婦それぞれの夢や不安についても語り合います。
家庭1on1の進め方
- 現状共有: お互いの仕事・育児状況の確認
- 課題抽出: 困っていること・改善したいことの洗い出し
- 役割分担: 具体的なタスクの割り振り
- 目標設定: 家族として目指したい方向性の確認
- 感謝の時間: お互いの努力を認め合う
子どもが小学生になってからは、月に一度、子どもとの1on1時間も設けています。 学校のこと、友達のこと、将来の夢について話すこの時間が、親子の信頼関係を深めるだけでなく、子どもの自主性を育むきっかけにもなっています。
技術3:お金で時間を買う「戦略的アウトソーシング」
「家事代行やベビーシッターは贅沢」という考えを、私は「投資」という視点に変えました。
家事代行を週に一度、3時間利用すると月約4万円の出費になります。 しかし、この3時間で私が新規顧客開拓に集中できれば、それ以上の収益を生み出すことが可能です。
アウトソーシング投資対効果の計算例
サービス | 月額費用 | 確保できる時間 | 時間当たりの価値 |
---|---|---|---|
家事代行 | 40,000円 | 12時間 | 3,300円/時間 |
ベビーシッター | 30,000円 | 8時間 | 3,750円/時間 |
食材宅配 | 15,000円 | 4時間 | 3,750円/時間 |
私の場合、確保した時間を経営活動に充てることで、投じた費用の2-3倍の価値を生み出せています[3]。
良いパートナーを見つけるコツは、まず近隣の同じ境遇の女性経営者からの紹介を求めることです。 口コミと実績のあるサービスであれば、安心して任せることができます。
技術4:罪悪感を減らす「子どもとの時間の”密度”を高める」技術
「量より質」。 この考え方が、働く母親の罪悪感を大きく軽減してくれます。
以前の私は、子どもと一緒にいる時間の長さで愛情を測ろうとしていました。 しかし、湘南の古民家に移住してから気づいたのは、一緒にいる時間の「密度」こそが重要だということです。
平日は忙しくても、帰宅後の30分間はスマートフォンを完全に置いて、子どもと向き合う時間を作っています。 宿題を一緒に見る、今日あった出来事を聞く、本を読み聞かせる。 たった30分でも、子どもの表情は格段に明るくなります。
子どもとの密度の高い時間の作り方
- デジタルデトックス: スマホ・PC を完全に遮断
- アクティブリスニング: 子どもの話を最後まで聞く
- 共同作業: 料理・掃除を一緒に楽しむ
- 創造的活動: 絵を描く・工作・読書の時間
- 振り返りの時間: 今日の良かったことを3つずつ話し合う
休日には「スペシャルタイム」として、月に一度は子どもだけと過ごす特別な時間を設けています。 美術館に行く、一緒に料理を作る、海岸を散歩するなど、他の予定を一切入れずに子どもとの時間だけに集中します。
この習慣を始めてから、子どもから「ママはいつも忙しそう」という言葉を聞くことがなくなりました。
技術5:未来の自分を助ける「仕組み化」と「テンプレート化」
繰り返し発生する業務を仕組み化することで、未来の自分の時間を大幅に節約できます。
例えば、我が家の平日の夕食メニューは基本的にパターン化されています。 月曜日は魚料理、火曜日は肉料理、水曜日は麺類、といった具合に大枠を決めることで、毎日「今日は何を作ろう」と悩む時間を削減しています。
我が家の仕組み化例
- 献立: 曜日別基本パターン+月末に翌月分を一括決定
- 買い物: 週末のまとめ買い+ネット宅配の併用
- 掃除: 曜日別担当エリア制(月曜はキッチン、火曜は洗面所等)
- 洗濯: 家族別カゴ分けで畳む作業を効率化
- 書類整理: 月末最終土曜日に一括処理
ビジネス面でも同様です。 新規顧客へのアプローチメール、企画書のテンプレート、定期的な報告書フォーマットなど、再利用可能なものはすべてテンプレート化しています。
これにより、毎回ゼロから作成する時間が不要になり、その時間をより創造性の必要な業務に充てることができるのです。
よくある質問(FAQ)
Q: 子どもの急な発熱などで仕事に穴を開けてしまいます。スタッフに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
その罪悪感、痛いほどわかります。 大切なのは、日頃から「社長が不在でも事業が回る仕組み」を構築しておくことと、あなたの状況をオープンに共有し、チームの理解を得ておくことです。
私も経験がありますが、実はこうしたピンチこそが、チームの自律性を育む絶好の機会になります。 「今日は〇〇さんにお任せします。何かあれば電話で相談してください」と明確に権限移譲することで、スタッフの成長と責任感の向上につながるのです。
それは経営者としてのリスク管理能力の証明でもあります。 優秀な経営者ほど、自分以外の人材を育成し、組織として機能する仕組みを作っているものです。
Q: 夫(パートナー)が多忙で、協力が得られにくいです。どうすれば?
「手伝って」ではなく「チームとしてこの課題をどう乗り越えるか」という視点で対話を提案してみましょう。
感情的に訴えるのではなく、まずは現状の課題を数値化して整理します。 例えば、あなたの1日のスケジュールを時間割で示し、どの部分がボトルネックになっているかを客観的に伝えるのです。
そして「あなたに何をお願いしたいか」を具体的に、ビジネスの交渉のように冷静に話す場を設けることが有効です。 「火曜日と木曜日の夕食準備を担当してもらえれば、私は〇〇の業務に集中でき、家計にもプラスになる」といった形で、相手にとってのメリットも含めて提案しましょう。
Q: 自分のための時間が全くありません。趣味や休息に時間を使うことに罪悪感があります。
経営者にとって、休息は義務です。 最高のパフォーマンスを維持するためのメンテナンス時間だと捉えましょう。
まずは週に1時間でも良いので、カレンダーに「自分アポ」としてブロックし、誰にも邪魔されない時間を確保することから始めてみてください。 この時間は、読書でも、お茶を飲みながらぼんやりすることでも、何でも構いません。
その1時間が、結果的に会社と家族に良い影響をもたらします。 心に余裕のある経営者の方が、より良い判断を下し、子どもに対してもイライラすることが減るからです。
私自身、鎌倉の海を散歩する時間が、最も創造的なアイデアが生まれる貴重な時間になっています。
Q: 周りの経営者仲間は男性ばかり。子育ての悩みを共有できる相手がいません。
とてもよく分かります。 だからこそ、意識的に女性経営者や同じ境遇のワーキングマザーとの繋がりを探すことが重要です。
「しなやか経営ラボ」のようなコミュニティに参加するのも一つの手です。 オンラインでも、女性起業家向けのイベントやセミナーが数多く開催されています。
同じ痛みを分かち合える仲間がいるだけで、心の負担は驚くほど軽くなります。 また、お互いの経験やノウハウを共有することで、新しい解決策が見つかることも多いのです。
まずは地域の商工会議所の女性部会や、SNSでの女性経営者グループなどから始めてみることをお勧めします。
Q: 事業の成長と、子どもと過ごす時間、どちらを優先すべきか悩んでしまいます。
それは二者択一ではありません。 事業フェーズによって優先順位が変わるのは当然です。
大切なのは「今はどちらにアクセルを踏む時期か」を自分で意識的に選択し、その期間を決めることです。 「今から半年は事業拡大に集中する。その代わり、このプロジェクトが終わったら1週間は家族との時間を最優先にする」など、メリハリをつけることで、どちらも諦めない道が見えてきます。
私の場合、子どもの夏休み期間は事業の新規開拓を控えめにし、平日は定時で仕事を終えるようにしています。 逆に、子どもが学校に集中している時期は、出張や新しいプロジェクトに積極的に取り組みます。
このメリハリがあることで、子どもも私の仕事を理解し、応援してくれるようになりました。
まとめ
時間泥棒との戦いは、力でねじ伏せるものではなく、流れを受け止め、受け流す”柔術”に似ています。
完璧な母親、完璧な経営者という鎧を脱ぎ捨て、弱さを見せ、他者を信じて任せる。 その”しなやかさ”こそが、あなたに時間と心の平穏を取り戻してくれる最強の技術です。
今日から始められる3つのステップ
- やらないことリストを5つ書き出してみる
- カレンダーに30分の余白時間を確保する
- **家族または信頼できる人に「助けて」**と言ってみる
この記事でご紹介した技術や哲学が、あなたの毎日を少しでも軽やかにする一助となれば、これほど嬉しいことはありません。
戦う日々から、共存する日々へ。 あなたらしい、しなやかな経営と人生を、心から応援しています。
もし、同じ志を持つ仲間と語り合いたくなったら、いつでも鎌倉の古民家でお待ちしています。
参考文献
[1] 東京商工リサーチ「2024年の全国の女性社長64万9,262人」
[2] 内閣府男女共同参画局「仕事と子育ての両立の状況」
[3] Square「女性起業の現状と課題とは」